安芸十二神祇神楽のあゆみ
上河内神楽団の十二神祇の起こりは、筒賀の大銀杏で有名な大歳神社あたりです。
古文書を辿って時代と場所を遡ると、西暦1700年ごろ筒賀の大銀杏で有名な大歳神社辺りで形づくられた十二神祗が、五日市筒賀線で打尾谷へ、更に湯来大橋から大森神社方向に行き、ここで白砂舞として記録に残ります。南下して白川で分岐して峠から極楽寺山を越して廿日市市原へ到達します。
もう一つは、白川から河内峠を越して荒谷、河内に至り、八幡川を下って観音、井口に至ります。ほかに、白川から安佐南区阿戸に向かいます。
もう一方は、太田川沿いに下って行き、広島市へ至り亀山や西原、高揚へと伝わっていきます。


大歳神社で形づくられた演目は、上河内神楽団の保持演目に将軍舞を加えたもので、神楽の最後に十二神祇の主要な演目である阿羅比良舞と将軍舞で締めくくられるものでした。
河内を含む八幡川流域の神楽は、大歳神社から伝わった神楽のほかに、遡ること300年前の西暦1400年代から神職による神楽が伝わっていました。この神楽は、上河内神楽団が舞っている「遺産相続に関する神楽」と同じもので、中国から輸入された陰陽五行説を盤胡大王の五人の王子の遺産配分をめぐる争いの物語としたものです。
大歳神社から河内へ十二神祇が伝わった1700年代に、神職によって舞われていた舞が住民に引き継がれ、この二つが融合して現在舞われる形になったと考えられます。この際に、将軍舞は淘汰され阿羅比良舞が残ったと思われます。ちなみに、将軍舞は廿日市(原神楽団)で継承され、将軍舞と阿羅比良舞は阿戸(阿刀神楽団)で連綿と舞われています。
上河内神楽団が現在舞っている演目は、このように成立し明治時代の中期に下河内村の有志が、神職から伝授を受け下河内神楽団を結成し、下河内神楽団から習って上河内神楽団を立ち上げ現在に至っています。
上河内神楽団の保持演目「遺産相続に関する神楽」は、室町時代から続いています。神楽の起源を辿れば、天岩戸の前で天宇受賣命が舞ったのが最初だといわれ、以来、いろいろな芸能が融合され、飛鳥時代に輸入された当時トレンドだった陰陽五行説を盤胡大王の五人の王子の物語に仕立てて加え、現在の十二神祇が成立したことは既に述べたとおりです。
上河内神楽団は、八幡川流域でも阿羅比良舞の古い形の祭文を継承しているという比較研究もあります。今後も安芸十二神祇を次代に継承する一翼を担いたいと切に思っています。
